北見市に隣接する農業と酪農の町、訓子府。
 2006年4月まで、その中心部には北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線の駅、訓子府駅が存在した。
Information
路線: 北海道道361号尺別尺別停車場線
起点:釧路市音別町尺別
終点:釧路市音別町尺別(旧尺別駅跡)
延長:11,247m(総延長)
沿線:尺別炭鉱跡、尺別鉄道跡、尺別駅跡 他
走行:冬期通行止区間以外(終点→起点側ゲート) 2019年3月9日撮影
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JR尺別駅

 JR尺別駅は、2019年のダイヤ改正で廃駅となった。現役最後の週末である3月9日、釧路へ向かう道すがらr361をトレースしつつ駅も訪問することにする。

 駅舎は2013年時点では古い味のあるものだったが、2017年までに内装もろとも改装された。ただ建て変わったわけではなくそれより以前から長い間機能していたのだろう。

 駅舎内はその半分が待合室として機能していた。掲示物が多い。

 一角には尺別鉄道に関する記事が印刷され、ラミネート加工された上でびっしりと貼られていた。その脇にはWikipedia記事も同じように貼られていた。熱心な方がいらっしゃったのだろう。尺別愛が伝わってくる。

 発車時刻表。1日6.5往復のダイヤで、釧路方面は全て釧路行き、新得方面は6本のうち朝晩の2本が新得行きで、午後の1本が芽室行き、残りは帯広行きであった。

 撮影当時は自動車での訪駅者が数組いた。そのお目当ては11時17分発の帯広行普通列車のようだ。

 ホーム側の壁には運賃表とワンマン列車の乗り方を細かく書いた掲示物。

 ここで乗り降りするような乗客はワンマン列車の乗り方ぐらい心得ていそうだが。

 駅舎を出て振り返る。ホーム側は古臭い木造駅舎・・・ではなく、それ風に改装された新しいものである。これだけきれいだけど廃駅になってしまったんですよね。

 尺別駅ホーム。相対式ホーム2面2線をもつ駅で、撮影当時のダイヤでは普通列車同士の交換が1日1回あった。

 反対側のホームへは跨線橋を通って行き来する。

 跨線橋から釧路方を望む。この景色も廃駅となっては二度と見られない。

 利用者僅少により2019年3月16日、
 尺別駅は廃止された。

 帯広方を望む。尺別は丘陵により他の地区と隔てられた小集落で、海に面してはいるが漁港はない。

 1970年までこの駅は雄別炭礦尺別鉄道線という地方鉄道が分岐しており、1971年まで尺別駅で貨物取扱が行われていた。尺別鉄道線は写真右側へ分岐しかつての尺別炭鉱へ向かい、その後r361とクロスすることとなる。また、貨物取扱のための側線も同様に写真右側にあり、対面式ホームの裏側に続いていたという。

 尺別駅の駅名標。駅番号はK44

 Twitter情報によると、ダイヤ改正前日の2019年3月15日、最終列車の発車後にこの駅名標は駅舎正面の駅名、ホーム状のホーロー看板もろとも取り外されたという。駅がなくなる瞬間というのは思いの外あっけないのかも知れない。

 2番のりばに当たるホーム。思いの外立派な屋根と柱に据え付けられたホーロー看板が2枚。もしベンチがあればそれだけでもとても立派な駅だった。

 JR根室本線においては2015年末時点で8駅が「乗車人員1日平均1名以下」という状況であった。翌2016年の3月に花咲駅が廃止。翌年2017年に稲士別駅、島ノ下駅、上厚内駅が廃止もしくは信号場に変更。更に2018年に羽帯駅が廃止された。そして2019年3月のダイヤ改正に伴い直別駅、尺別駅、初田牛駅が廃止され、残るは代行バスの運行起点となる東鹿越駅のみとなった。

 そんな尺別駅を後にして、道道の終点へ向かう。駅舎を出ると正面を線路と平行して道路が走っているが、道道はここではないため、そこを右(西)へ歩き、その後舗装道路に沿って進む。写真前方奥の交差点がr361の終点となる。

 尺別駅周辺には数軒の民家があるが、人が住んでいない廃屋も同様に何軒か放置されている。駅前、そして道道終点付近の住宅も今となっては廃屋で、その一部は老朽化が進み倒壊している。

道道361号終点

 というわけでr361尺別尺別停車場線のトレースを始めよう。

 駅前から離れた交差点に終点標識が建っている。周りは見ての通りの荒野であり写真にしてみると相当荒んだ風景に見える。

 終点を逆方向から見てみる。この道を真っすぐ進んだ突き当たりに、どうやら映画「ハナミズキ」のロケ地があるという。しかし僕はこの映画を知らないので、特に思い入れも無く通過してしまった。

 そういえば霧多布岬にもロケ地があったはず。あそこはr1039霧多布岬線の起点なので、この映画のスタッフに道道マニアがいるのかな()

 廃屋と荒野しか見えない風景が続く。海岸からは200mほどしか離れていないが海はあまり見えない。

 「ここは、津波浸水予測区域です」との表示。避難先はこの道道を4kmほど走ったところにある会館だ。

 ここは太平洋で津波が発生すると容赦なく襲いかかる。自動車でなく徒歩での避難を強いられる場合はR38を釧路方向に走ると1.5kmほどで高台になるのでそちらのほうが近い。それでも間に合わないというなら歩道橋の上や駅舎の屋根ぐらいしか高いところは無い・・・?

 JR根室本線を踏切で渡る。

 踏切を通り過ぎても荒野が広がるが、右側は太陽光発電設備がぎっしりと並んでいる。

 左折:R38 帯広 浦幌
 直進:r361 尺別
 右折:R38 釧路 白糠

 R38交差点の予告標識。国道はこの辺りを東西に突っ切るだけ。

 交差点の様子。前方には交通情報を示す看板と色あせた道道標識。

 縦型標識は何箇所かあるが六角形単独の道道標識はこの交差点の手前と奥の2つだけ。

 R38を跨ぐと、下半分だけ青色の残った道道標識が防火啓蒙ののぼりと共にぽつんと建っている。

 反対側には「除雪案内」の看板。

 えーと、「一部不通」。へーこんな表記もあるんですね。

 ・・・って、冬季閉鎖区間あるのか!全線トレース出来ないのでは??

 そうです。全線トレースできませんでした。「確か起点標識は舗装路の途切れるところにあったはず」という記憶は正しかったのですが、実際は未舗装の冬季閉鎖区間が存在したみたいです(釧路建設管理部のHPにも記載あり)。

 一部不通が頭に引っかかるが、どちらにしろこの道道を何度も走ることは無さそうなので今回で撮ってしまうことにする。

 R38以北は沿線に牧草地が広がる。丈の高い草がむやみに茂る原野と違い、きちんと刈り込まれているので雪が無いなら見分けるのは簡単だ。

 「牛横断注意」は酪農地帯ならではですよね。実際に牛が横断するかどうかはともかく、牛の柄や絵のリアリティにバリエーションがあるので標識自体をじっくり比較してみると楽しそう。

 遠方に広がる白糠丘陵。手前には広い牧草地が広がる。かつてこの丘陵の中に日本のエネルギー源を供給した尺別炭礦が存在したが、この辺りは今も昔も変わらぬ牧草地だっただろう。

 尺別地区は現在となっては谷あいに平坦な酪農地帯が広がるだけの静かな地域。さぁまだまだ奥に向かいますよー。

 しかし冬+積雪がないということで荒れた感じの風景ですよね。これが5月6月になると一面緑になるのがすごい。

 時折、酪農家の大きな牛舎と施設が道路脇に建っているのがわかる。

 機械化の進んだ現在の酪農では、大きなサイロを使う酪農家はほとんど見られない。では代わりにどうしているかというと、機械により牧草を刈り取ってロール型にし、ラップを施した「牧草ロール」をその場で作り、それを貯蔵することで安定した飼料となる。あるいは、バンカーサイロと呼ばれる屋根のある平置きの集積場のような施設を使うのが主流となり、かつての酪農を象徴とした塔型サイロはほぼ使われなくなった。

 r361の沿線には数軒の酪農家があるようで、ポツポツとそのご自宅の前を通過していく。

 次のカーブを手前に未舗装の狭い道路が左側から分岐して雑木林に突っ込んでいく。

 どうやらこれが尺別鉄道の線路跡と思われる。4枚上の標識のあるカーブからこの地点まで、r361は線路跡地の上、もしくは並走して走っていたようである。

 ここで尺別川を渡る最初の橋梁。舗装区間のうちにあと2回ほどクロスするようだ。

 舗装道路との交差点。ここで左折すると一旦尺別鉄道の線路跡と重なった後、林の中を通って隣の直別方面に抜けることが可能である。

 左右を牧草地に囲まれたカーブ。R38付近より気持ち雪が多くなる。

 春先の残雪はちょっとした条件の違いにより量が変化する。2018-19年は十勝地方では雪の少ない冬だったが、東隣のここ尺別でも似たような状況だったのだろう。

 先程の写真より更に車を走り進めると道道は木々に囲まれるようになってくる。右側には何か記念植樹のような文字列がある。

 かたばみ興業という企業の創立65周年記念植樹らしい。この会社は林業をやっているようだ。

 徐々に舗装が荒れてくる、というより車が通っていない感じになる。まだ牧草地はあるけど、だんだん山奥という感じ?

 この付近からr361の起点付近にかけて、かつての炭鉱住宅が整然と並んだ住宅地がいくつも並んでいた。この辺りは錦町という。また、このレポートで紹介しているr361の沿線には学校や商店、郵便局などが立ち並んでいた。廃坑から50年弱を経た現在となっては信じ難いが、この尺別地域が「雄別炭礦株式会社」第三の規模を誇る炭鉱であり、戦前から高度成長期にかけて日本のエネルギー源を支えていたのである。

 ここで尺別鉄道で恐らく一番明瞭な遺構であろう、跨道橋跡を通過する。

 尺別鉄道の歴史に触れておこう。
 1942年に雄別炭礦株式会社の前身、雄別炭礦鉄道(株)が尺別専用鉄道として開業させたもので、その後1959年鉄道部門の雄別鉄道(株)に移管され、1962年には炭鉱以外の利用を見越して地方鉄道に変更された。雄別炭礦の末期となる1970年2月、雄別鉄道(株)は雄別炭礦(株)に吸収合併される。

 その2ヶ月後の1970年4月16日、尺別鉄道は廃止された。

 跨道橋跡を振り返る。2車線道路の両側には歩行者が通れる歩道(照明も付いていたようだ)があり、その作りからここが炭鉱の町の中心部として多くの人と車が行き交うことを想定したものであることが見て取れる。

 この辺りは緑町一区に該当するようだ。指定商街が広がっていたという。

 車の向きを戻して起点へ向かう。こうしてみると集落のようにも見えるが当時は炭鉱住宅が並んだもっと大きな町であり、そして現在は一番奥の民家より「奥」にあり、写真で見るよりもっと静かな山間の牧草地である。

 右に石碑と郵便局跡だという建物、左に緑町二区の住宅街のあった牧草地で、その中にぽつんと給油所の跡が残る。右側の物件は次に紹介する。

 建物の方はかつての尺別生活館であったという。往時の市街地図にもしっかりとその名前がある。

 釧路市のHPを見るとこの建物は2014年頃までは現役とされていたことがわかる(その実態は不明だが)。現在となっては廃物件であり、建物自体はしっかりしているが外観(恐らく内部も)は大いに荒れていた。

 その右隣には尺別炭砿復興記念碑が建っている。赤い金属プレートには以下の文字が刻まれている。

  移 転 誌

 我が故郷、この地 尺別炭砿は大正7年採炭開始以来
 半世紀にわたって多くの人々の生活の詩を綴りつづけて
 きたところであり、この山峡には数多くの喜怒哀楽と
 想い出が生きつづけている。
 とくに尺別炭鉱は第2次大戦時には旧砿山に指定され
 戦後復興には炭砿関係者は勿論のこと地域住民あげての
 期待と協力の結実によるものである。
 この碑はそのときを祝して建立されたものである。
 しかるに昭和45年2月国のエネルギー策により閉山の
 破局を迎えるに至った。
 昭和60年8月開催の閉山15周年交流会を記念し
 土地所有者成田氏の特段のご理解と多くの方々のご協力
 を得て前建のところより現地に移転したものである。

  昭和60年8月15日

  尺別炭砿閉山15周年交流会 準備委員会

 尺別生活館の裏手に新尺別駅跡が存在する。ホーム跡なども行けばわかるようだが私は遠方から給水塔跡らしき遺構を撮るにとどめた。この周囲は公共施設はもちろん役場まであり尺別炭鉱の「城下町」の中心部であった。

 新尺別駅跡から先はいよいよ山の中に入る。冬季閉鎖区間まで2kmもないはずだ。

 「緑町」はこの付近で一旦途切れたが、これより奥には「旭町」地区が存在した。要するに、ここから炭鉱跡に至るまでの間にも住宅がまだまだあったのだ。

 1KP。さぁどこまで道道進めるかな?

 この辺りは道路と尺別川が近接しており、山地ということもありあまり建物はなかったっぽい。

 画面奥(道路右側に茶色い欄干)に見える道路橋で尺別川とクロスする。

 尺別鉄道の旭町駅はその道路橋付近に存在した。周囲の飯場の歴史は旭町駅開業以前から存在したが、開業は1942年のことである。前後の勾配がきつく厳冬期は旭町からその先、尺別炭山への運行がままならず一度引き返すこともあったという。地方鉄道移行後の1960年代に新尺別-尺別炭山の旅客輸送がバス転換され、尺別鉄道末期の旭町駅には停車する旅客列車は朝の1便だけだったという。

 もう一度尺別川とクロスする。

 雄別炭礦は1960年代にかけて「エネルギー革命」の煽りを受け採算が悪化していた。もちろん経営改善策や技術革新による対応を試みていたのだが、そんな矢先の1968年、経営する空知の茂尻炭鉱でガス爆発事故が発生、19名が亡くなった。
 直後に茂尻炭鉱は閉鎖され、事故対応により会社の資金繰りは急速に悪化する。事故からわずか2年後の1970年2月27日、雄別・上茶路の炭鉱と共に尺別炭鉱は閉山された。追って尺別鉄道は廃止となったが、それは同年4月のことである。

道道361号冬季閉鎖起点

 尺別川と並走して走るうちに、唐突に冬期通行止を告げるゲートが行く先を塞ぐ。Googleストリートビューではこのゲート上にr361の起点標識があったが、私の写真からは確認できなかった。なお、実際のr361の起点はこのゲートより700m先にある。キロポストから考える起点よりどう考えても奥である。

 ゲートより先には旭町地区の飯場と、尺別炭鉱の各施設が存在した。遺構の多くは藪に埋もれており探索は危険を伴う。当サイトの記述を元に探索し、事故に合われた場合の責任は負いかねる。くれぐれも自己責任で。

 ゲートの先を眺める。起点より奥には人が足を踏み入れたような跡もあるが、3月初旬においてはまだ雪に埋もれている。

 この奥にかつての尺別炭鉱が、
 残された石炭とともに眠っている。

 尺別炭鉱は、1970年2月に52年の歴史を閉じた。閉山後、新尺別からは集団移転が行われ、炭鉱地区内の住民は1970年のうちに全てが転出した。炭住街の整備から20年弱の出来事であった。無人となった尺別炭鉱地区は森林や牧草地に還り、今は一部の痕跡を残して見る影もなくなっている。

 参考リンク(pdf):釧路炭田産炭史
 (北海道産炭地域振興センター)

最終更新:2019年3月18日 
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